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名古屋地方裁判所 平成7年(ヨ)769号 決定 1996年3月06日

フランス国

ル・プレスィ・ロバンソン市ガリレー通り二二

債権者

サンテラボ

右代表者

エルヴェ・ゲラン

右代理人弁護士

片山英二

同右

北原潤一

右復代理人弁護士

林康司

名古屋市千種区内山町三丁目三二番二号

債務者

堀田薬品合成株式会社

右代表者代表取締役

堀田和正

右代理人弁護士

富岡健一

同右

舟橋直昭

同右

高橋譲二

右輔佐人弁理士

長谷照一

同右

高木幹夫

同右

原知恵美

主文

一  債権者が、本決定告知後五日以内に債務者のために、金三〇〇万円の保証を立てることを条件として、債務者は、平成八年三月二六日が経過するまで、別紙物件目録(一)記載の物件を、製造し、販売してはならない。

二  申立費用は、債務者の負担とする。

事実及び理由

第一  申請の趣旨

一1  債務者は、別紙物件目録(二)記載<1>の物件を、製造し、販売してはならない。

2  債務者は、別紙物件目録(二)記載<2>の物件を、製造し、販売してはならない。

3  債務者は、別紙物件目録(二)記載<3>の物件を、製造し、販売してはならない。

4  債務者は、別紙物件目録(二)記載<4>の物件を、製造し、販売してはならない。

(右1ないし4は、順次予備的な関係に立つものである。)

二  債務者の別紙物件目録(二)記載の物件及びその製剤材料である別紙物件目録(三)記載の物件に対する占有を解いて、管轄地方裁判所の執行官に保管を命ずる。

第二  当事者の主張の要旨

一  債権者の主張

1  被保全権利

(一) 債権者は、別紙特許権目録(一)記載の特許権(以下「甲特許権」といい、その発明を「甲特許発明」という。)及び別紙特許権目録(二)記載の特許権(以下「乙特許権」といい、その発明を「乙特許発明」という。)を有している。

(二) 甲特許発明は、チアプリド又は塩酸チアプリドからなり、「振せんと、特発性もしくは医原性のデイスキネジーと、舞踏病、チック、片舞踏病のような異常な行動とを含む運動異常を調整する」という用途を有する治療薬に関するものであり、乙特許発明は、チアプリド又は塩酸チアプリドからなり、「アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常を調整する」という用途を有する治療薬に関するものである。

(三) 債務者は、塩酸チアプリドからなり、「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄の改善、特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」を効能、効果とする医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)を製造販売している(以下、この医薬品を「債務者製品」という。)。

(四) 債務者製品は、塩酸チアプリドからなり、「特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」を効能、効果としているところ、特発性ジスキネジアは、甲特許権の「特発性のデイスキネジー」と同じものであり、パーキンソニズムに伴うジスキネジアは、甲特許権の「医原性のデイスキネジー」と同じものである。

(五) 乙特許発明における「反応性亢進」は、患者の反応性が高まった状態を、「攻撃性」は、患者の攻撃行動を支配する衝動や欲求が高まった状態を、「刺激性」は、些細な刺激に対しても容易に反応する過敏な情動の状態であり、いらいらして、すぐ不機嫌になりやすく、又はかっとしやすい状態を意味し、乙特許発明は、このような現象が単独で又は組み合わさった状態で生じた結果引き起こされる行動異常を調整する治療薬に関するものである。

債務者製品の効能、効果のうち、「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄」は、いずれも、反応性亢進、攻撃性又は刺激性といった異常精神現象から生じる行動異常の態様である。

したがって、債務者製品の効能、効果のうち、老齢者に関する部分、すなわち、「老齢者における脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄の改善」は、乙特許発明の用途と一致する。

そして、「老齢者における」という文言は、日本語の普通の意味や優先権主張の根拠となるフランス国における出願の明細書の記載及び乙特許発明が対症療法のための医薬品の発明であって、症状の原因を治療するものではないことなどからすると、「加齢に伴う」との意味ではなく、「老齢者にある」又は「老齢者に見られる」との意味に解すべきである。また、「老齢者」は、一般には、六五歳以上の者を指し、少なくとも七〇歳以上の者を指すということができるから、その概念は、明確である。

さらに、仮に、「老齢者における」という文言を「加齢に伴う」との意味に理解したとしても、加齢は、一般に、脳動脈硬化症の原因となり得るとされているから、「加齢に伴う」脳動脈硬化症が存在するのであり、それに伴う「攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄の改善」は、乙特許発明の用途と一致する。

(六) よって、債務者製品を製造販売する行為は、甲特許権及び乙特許権を侵害する行為である。

2  保全の必要性

債権者は、甲特許権及び乙特許権につき、藤沢サンテラボ株式会社に実施許諾し、同社から右特許権の実施品の製造販売につき委託を受けた藤沢薬品工業株式会社が、塩酸チアプリドからなり、債務者製品と同じ効能、効果を有している「グラマリール」という商品名の薬品を製造販売しているところ、債務者製品の製造販売により、右グラマリールの販路が奪われ、ひいては、債権者が回復しがたい損害を被るおそれがある。

二  債務者の主張

1  甲特許権について

(一) 被保全権利について

<1> 甲特許権は、平成六年法律一一六号特許法の一部を改正する法律の施行により、その存続期間の終期が平成七年七月一一日から平成八年三月二六日に延長されたものであるところ、債務者は、同法の公布日(平成六年一二月一四日)前に、債務者製品について、製造承認の申請、製品開発会での製造販売の再確認、打錠機杵用母型の発注等、発明の実施である事業の準備をしていたから、同法附則五条二項(以下「附則五条二項」という。)の規定に基づき、通常実施権を有する。

<2> 物の用途発明を実施しているというためには、物を当該用途に実際に使用することが必要であり、当該用途を有するものとして物を製造したのみでは、特許発明を実施したことにならない。しかるところ、債務者は、債務者製品を甲特許発明の用途に使用しているわけではないから、甲特許発明を実施していない。

(二) 保全の必要性について

甲特許権には、次のとおり無効事由があるから、保全の必要性がない。

<1> 甲特許権の優先権主張日前に日本の国立国会図書館に受け入れられた刊行物には、「チアプリドの治験は、舞踏病運動や、神経筋肉痛や、ある種のアルコール中毒事故のさいに興味あるように思われた。」と記載されているものがある。ここに記載されている「舞踏病運動、神経筋肉痛、アルコール中毒」に対する薬理効果は、「振せんと、特発性もしくは医原性のデイスキネジーと、舞踏病、チック、片舞踏病のような異常な行動とを含む運動異常」に対する薬理効果を示唆しているから、甲特許発明は、右刊行物記載の発明と同一であるか、又は、その発明に基づいて容易に発明することができるものである。したがって、甲特許発明には、特許法二九条一項三号及び同条二項に定める事由がある。

<2> 甲特許発明は、用途を特定している用途発明であるから、甲特許発明が成立しているというためには、右用途に対する薬理効果が、臨床試験による試験成績によって、有効量、投与方法とともに、明確に裏付けられなければならない。ところが、甲特許権の特許公報の記載からは、甲特許発明の用途に対する薬理効果を、有効量、投与方法とともに、確認することができない。したがって、甲特許発明は成立していないから、特許法二九条一項柱書に規定する「発明」に該当しない。

<3> 甲特許権の特許公報及び出願時における明細書の記載からは、甲特許発明の用途に対する薬理効果を、有効量、投与方法とともに、確認することができないから、甲特許権の「発明の詳細な説明」には、当業者が甲特許発明を容易に実施することができる程度に甲特許発明の効果が記載されているとは認められない。また、甲特許権の「特許請求の範囲」の欄には、「発明の詳細な説明」に記載された発明の構成に欠くことができない事項のみが記載されているものとも認められず、かつ、「特許請求の範囲」の記載それ自体が不明瞭である。したがって、甲特許権は、昭和六〇年法律四一号による改正前の特許法三六条四項及び五項の要件を満たしていない。

<4> 甲特許権の出願時における明細書には、「特発性の神経性筋肉性ディスキネジー、医原性の神経性筋肉性ディスキネジー、舞踏病、チック、片舞踏病」は、記載されていなかった。これらの事項は、昭和五四年一二月二八日提出の手続補正書において新たに追加された事項である。この手続補正は、出願時には発明に包含されていないものを発明に含める補正であるから、平成五年法律二六号による改正前の特許法四〇条に規定する「要旨を変更するもの」に該当する。したがって、甲特許権の出願は、右手続補正書を提出したときにされたものとみなされるところ、そのときには、甲特許権の出願時における明細書はすでに公報によって公開されていたから、甲特許発明には、特許法二九条一項三号に定める事由がある。

2  乙特許権について

(一) 被保全権利について

<1> 債務者製品は、次のとおり乙特許発明の構成要件に該当しない。

ア 乙特許発明は、アルコール中毒患者と老齢者の行動異常を改善、調整するための医薬品であり、「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄」を改善、調整することを目的としたものではない。「アルコール中毒患者と老齢者」は、「脳動脈硬化症」とは何の関係もない異なる概念である。また、乙特許権の「発明の詳細な説明」には、「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄」の改善に関する試験データや有効量、投与方法についての記載がない。したがって、債務者製品は、乙特許発明の構成要件に該当しない。

イ 乙特許発明における「老齢者」という概念は、明確に定義することができないから、乙特許権の「特許請求の範囲」の記載は、抽象的かつ不明確である。また、乙特許権の「発明の詳細な説明」においても、いくつかの実施例の記載があるのみで、「老齢者」という概念は、具体的に説明されていない。このようなことからすると、乙特許権の及ぶ範囲は、右実施例に限定されるべきである。しかるところ、右実施例中に脳動脈硬化症に起因する行動異常に対する薬理効果の例はないから、債務者製品は、乙特許発明の構成要件に該当しない。

ウ 乙特許権の「特許請求の範囲」中の「老齢者における」という文言は、「加齢に伴う」という意味に解すべきである。脳動脈硬化症は、加齢に伴って発症するものとは一般に理解されていないから、債務者製品は、乙特許発明の構成要件に該当しない。

<2> 物の用途発明を実施しているというためには、物を当該用途に実際に使用することが必要であり、当該用途を有するものとして物を製造したのみでは、特許発明を実施したことにならない。しかるところ、債務者は、債務者製品を乙特許発明の用途に使用しているわけではないから、乙特許発明を実施していない。

<3> 乙特許権は、原出願から分割出願されたものであるところ、原出願については、「『アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常』とは、具体的にどのような行動をいうのか不明である。チアプリドの第4級アンモニウム塩及びその酸化物の治療効果が具体的に記載されていない。」との拒絶理由通知がされたため、債権者は、「アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常」及び「チアプリドの第4級アンモニウム塩及びその酸化物」について、特許請求の範囲から除いて、原出願について特許査定を得るとともに、乙特許発明について、原出願から分割出願し、右拒絶理由について何ら補正をしないまま、特許査定を受けた。

このように、乙特許権は、債権者が自ら特許請求の範囲から除いたものを、何ら補正をしないまま特許査定を受けたものであるから、乙特許権を行使することは、禁反言の法理に照らして許されない。

(二) 保全の必要性について

乙特許権には、次のとおり無効事由があるから、保全の必要性がない。

<1> 乙特許権の優先権主張日前に日本の国立国会図書館に受け入れられた刊行物には、「チアプリドの治験は、舞踏病運動や、神経筋肉痛や、ある種のアルコール中毒事故のさいに興味あるように思われた。」と記載されているものがある。ここに記載されている「アルコール中毒」に対する薬理効果は、乙特許発明の用途のうち、「アルコール中毒患者における行動異常」に対する薬理効果に該当している。また、右の記載は、「老齢者における行動異常」に対する薬理効果も示唆しているということができる。したがって、乙特許発明は、右刊行物記載の発明と同一であるか、又は、その発明に基づいて容易に発明することができるものであるから、乙特許発明には、特許法二九条一項三号及び同条二項に定める事由がある。

<2> 乙特許発明は、用途を特定している用途発明であるから、乙特許発明が成立しているというためには、右用途に対する薬理効果が、臨床試験による試験成績によって、有効量、投与方法とともに、明確に裏付けられなければならない。ところが、乙特許権の特許公報の記載からは、乙特許発明の用途に対する薬理効果を、有効量、投与方法とともに、確認することができない。したがって、乙特許発明は成立していないから、特許法二九条一項柱書に規定する「発明」に該当しない。

<3> 乙特許権の特許公報及び出願時における明細書の記載からは、乙特許発明において特定された行動異常は、アルコール中毒以外では、いかなる疾患に起因するものであるか、「反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象」は、アルコール中毒患者と老齢者に共通するいかなる疾患に起因する現象をいうのかいずれも不明である。また、乙特許発明における行動異常には、右現象によって示される行動異常以外の行動異常も含まれるから、行動異常の範囲の特定が不十分である。さらに、同一の症状であっても疾患により成因を異にする場合があるにもかかわらず、乙特許発明においては、疾患によって用途が特定されていない。

このように、乙特許権の「発明の詳細な説明」には、当業者が乙特許発明を容易に実施することができる程度に乙特許発明の効果が記載されているとは認められない。また、乙特許権の「特許請求の範囲」の欄には、「発明の詳細な説明」に記載された発明の構成に欠くことができない事項のみが記載されているものとも認められず、かつ、「特許請求の範囲」の記載それ自体が不明瞭である。したがって、乙特許権は、昭和六〇年法律四一号による改正前の特許法三六条四項及び五項の要件を満たしていない。

三  債権者の反論

1  甲特許権について

(一) 被保全権利について

債務者は、甲特許権の延長される前の存続期間の終期(平成七年七月一一日)以前から、債務者製品の製造承認を得るための各種試験を行うことを目的として、債務者製品を製造した。これは、甲特許権を侵害する行為であり、このような特許権侵害行為を行っていた者には、附則五条二項に基づく通常実施権は認められない。

なお、商業的利用を目的のためにする試験又は研究は、特許法六九条の「試験又は研究」ということができないから、右債務者製品の製造には、同条の適用はない。

(二) 保全の必要性について

無効事由は、審判手続において主張されるべきものであるから、無効事由の存在は、保全の必要性を左右するものではない。また、甲特許権には、次のとおり無効事由はない。

<1> 債務者が右二1(二)<1>で主張する刊行物は、チアプリドの舞踏病等に関する治験についての興味を示唆しているにすぎないから、チアプリドが「舞踏病のような運動異常」の調整に有効であることを開示するものでないし、ましてや、「振せん、特発性もしくは医原性のデイスキネジー、チック、片舞踏病のような運動異常」の調整に有効であることを開示するものではない。したがって、右刊行物を理由として、甲特許発明に特許法二九条一項三号及び同条二項に定める事由があるものということはできない。

<2> 甲特許権の「発明の詳細な説明」には、「特許請求の範囲」に記載された「振せん、特発性もしくは医原性のデイスキネジー、舞踏病、チック、片舞踏病」のすべてについてチアプリドの臨床試験の結果が開示され、薬理効果が確認されたことが記載されているから、甲特許発明が成立していることは明らかであるし、昭和六〇年法律四一号による改正前の特許法三六条四項及び五項の要件を満たしている。

<3> 甲特許権の出願時における明細書には、「振せん、特発性又は医原性のディスキネジー、舞踏病、チック、片舞踏病」に対してチアプリドが薬理効果を有することが記載されていたから、昭和五四年一二月二八日提出の手続補正書による手続補正は、「要旨を変更するもの」に該当しないことは明らかである。現に、右補正は、却下されることなく、認められている。

2  乙特許権について

(一) 被保全権利について

乙特許権は、原出願から分割出願されたものであるが、原出願とは別に審査の対象となって、特許が付与されたのであるから、乙特許権の行使が禁反言に反することはない。

(二) 保全の必要性について

無効事由は、審判手続において主張されるべきものであるから、無効事由の存在は、保全の必要性を左右するものではない。また、乙特許権には、次のとおり無効事由はない。

<1> 債務者が右二2(二)<1>で主張する刊行物には、「ある種のアルコール中毒事故のさいに興味あるように思われた。」と記載されているにすぎない。右記載は、ある種のアルコール中毒事故に関する治験についての興味を示唆しているに過ぎず、チアプリドに「アルコール中毒患者における行動異常の調整」という用途が存することを開示するものでないし、ましてや、「老齢者における行動異常の調整」という用途が存することを開示するものはない。したがって、右刊行物を理由として、乙特許発明には、特許法二九条一項三号及び同条二項に定める事由があるものということはできない。

<2> 乙特許権の「発明の詳細な説明」には、「特許請求の範囲」に記載された「アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常」についてチアプリドの臨床試験の結果が開示され、薬理効果が確認されたことが記載されているから、乙特許発明が成立していることは明らかであるし、昭和六〇年法律四一号による改正前の特許法三六条四項及び五項の要件を満たしている。

四  債務者の再反論

甲特許権の通常実施権について

1  附則五条二項に基づく通常実施権が認められるかどうかは、「実施である事業の準備」をしていたかどうかによって決せられるべきであり、特許権侵害行為があるかどうかとは関係がないものというべきである。

2  債務者が行っていた債務者製品の製造承認を得るための各種試験を行うことを目的とした債務者製品の製造は、特許法六九条の「試験、研究のためにする特許発明の実施」であるから、甲特許権を侵害するものではない。

第三  当裁判所の判断

一  被保全権利について

1  証拠(疎甲一、二の各一、二、甲三、甲一五の一、二)によると、債権者が甲特許権及び乙特許権を有していることが一応認められる。また、債務者が債務者製品を製造販売していることは、当事者間に争いがない。

2  甲特許権に基づく差止請求権について

(一) 甲特許発明は、チアプリド又は塩酸チアプリドからなり、「振せんと、特発性もしくは医原性のデイスキネジーと、舞踏病、チック、片舞踏病のような異常な行動とを含む運動異常を調整する」という用途を有する治療薬に関するものであるところ、債務者製品は、塩酸チアプリドからなる医薬品であり、証拠(疎甲一一ないし一三)と審尋の全趣旨によると、その「効能・効果」に、「特発性もしくは医原性のデイスキネジー」を含むことが一応認められる。

(二) そこで、債務者が通常実施権を有するかどうかについて判断するに、甲特許権は、平成六年法律一一六号特許法の一部を改正する法律の施行により、その存続期間の終期が平成七年七月一一日から平成八年三月二六日に延長されたものであるところ、証拠(疎乙一ないし一九)と審尋の全趣旨によると、債務者は、右法律の公布日(平成六年一二月一四日)前に、債務者製品について、製造承認を得るための各種試験を行い、製造承認の申請をするなどしていたことが一応認められるから、甲特許発明の実施である事業の準備をしていたものということができる。

しかし、証拠(疎乙一ないし一一、一五ないし一九)と審尋の全趣旨によると、債務者は、平成七年七月一一日以前から、債務者製品の製造承認を得るための各種試験を行うことを目的として、塩酸チアプリドからなる医薬品を製造していたことが一応認められる。そして、債務者は、その「効能・効果」に「特発性もしくは医原性のデイスキネジー」を含む医薬品としての製造承認の申請を行うことを目的とし、そのような医薬品として塩酸チアプリドからなる右医薬品を製造していたのであるから、右医薬品は、甲特許発明と同一の用途を有するということができる。

また、このような製造承認を得るための各種試験を行うための製造は、技術の進歩を目的とするものではなく、専ら債務者製品の販売を目的とするものであるから、特許法六九条にいう「試験又は研究のためにする特許発明の実施」ということができない。したがって、右医薬品の製造には、同条の適用はない。さらに、右医薬品の製造は、債務者の営業のためになされたものであるから、特許法六八条にいう「業として」行われたものということができる。

したがって、右の医薬品の製造行為は、甲特許権を侵害する行為であり、このような特許権侵害行為を行っていた者には、そのような行為に基づいて、附則五条二項に基づく通常実施権を認めることはできない。

(三) 債務者製品は、右のとおり、甲特許発明と同一の物質からなり、かつ、同一の用途を有し、また、審尋の全趣旨によると、債務者は、債務者製品を業として製造販売しているものと一応認められるから、債権者は、甲特許権に基づく債務者製品の製造販売の差止請求権を有する。

3  乙特許権の基づく差止請求権について

(一) 乙特許発明は、チアプリド又は塩酸チアプリドからなり、「アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常を調整する」という用途を有する治療薬に関するものであり、乙特許発明における「老齢者における」という文言は、「老齢者にある」又は「老齢者に見られる」の意味に解することができるところ、債務者製品は、塩酸チアプリドからなる医薬品であり、証拠(疎甲一一、一六、一七、二一ないし四一、四五)と審尋の全趣旨によると、その「効能・効果」に、「老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常を調整する」という用途を含むものと一応認められる。

(二) 債務者は、乙特許発明における「老齢者」という概念は、明確に定義することができないから、乙特許権の及ぶ範囲は実施例に限定されるべきである旨主張するが、「老齢者」という概念が直ちに不明確であるということはできないから、右主張を採用することはできない。また、債務者は、乙特許権は、債権者が自ら特許請求の範囲から除いたものを、何ら補正をしないまま特許査定を受けたものであるから、乙特許権を行使することは、禁反言の法理に照らして許されない旨の主張をするが、乙特許権の出願経過が右のとおりであっても、乙特許発明について、特許付与の要件が存することが認められて、特許が付与されているのであるから、乙特許権を行使することが、直ちに禁反言の法理に照らして許されないということはできない。

(三) 債務者製品は、右のとおり、乙特許発明と同一の物質からなり、かつ、右のような老齢者に関するものについては、乙特許発明と同一の用途を有する。したがって、債権者は、乙特許権に基づく債務者製品の製造販売の差止請求権を有する。

なお、債務者製品の「効能・効果」には、右のような老齢者に関するもの以外のものも含まれ、このような老齢者に関するもの以外の用途を有するものとして債務者製品を製造販売することは、乙特許権の侵害となるものではないが、債務者製品が右のとおり乙特許発明と同一の用途を含むものとして製造販売されている以上、債権者は、乙特許権に基づいて、債務者製品の製造販売の差止めを求めることができるものというべきである。

二  保全の必要性について

1  証拠(疎甲四)と審尋の全趣旨によると、債権者は、甲特許権及び乙特許権につき、藤沢サンテラボ株式会社に実施許諾し、同社から右特許権の実施品の製造販売につき委託を受けた藤沢薬品工業株式会社が、塩酸チアプリドからなり、債務者製品と同じ「効能・効果」を有している「グラマリール」という商品名の薬品を製造販売していること、債務者製品の製造販売により、右グラマリールの販路が奪われ、ひいては、債権者が回復しがたい損害を被るおそれがあること、以上の各事実が一応認められる。

2  債務者は、甲特許権及び乙特許権につき無効事由が存する旨の主張をしているが、本件全証拠によるも、いまだ、明らかにこれらの無効事由が存するものとは認められない。

3  よって、債務者製品の製造販売の差止めにつき、保全の必要性を認めることができる。なお、債権者は、執行官保管も求めているが、甲特許権及び乙特許権の存続期間の終期が迫っていることからすると、執行官保管を命じるまでの必要性はないものというべきである。

平成八年三月六日

(裁判長裁判官 岡久幸治 裁判官 森義之 裁判官 田澤剛)

物件目録(一)

N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩からなり、「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄の改善、特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」を「効能・効果」とする医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)

物件目録(二)

<1> N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩からなり、「効能・効果」として、「特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」並びに「老齢者における脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄の改善」を含む医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)

<2> N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩からなり、「効能・効果」として、「特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」並びに「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄(ただし、六五歳以上の者に見られるもの)の改善」を含む医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)

<3> N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩からなり、「効能・効果」として、「特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」並びに「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄(ただし、七〇歳以上の者に見られるもの)の改善」を含む医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)

<4> N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩からなり、「効能・効果」として、「特発性ジスキネジア及びパーキンソニズムに伴うジスキネジア」並びに「脳動脈硬化症に伴う攻撃的行為、精神興奮、徘徊、せん妄(ただし、加齢に伴うもの)の改善」を含む医薬品(商品名「リングベン錠二五」、「リングベン錠五〇」)

物件目録(三)

N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドの塩酸塩

特許権目録(一)

特許番号 第一〇三六八一〇号

発明の名称 運動異常の調整用治療薬

出願日 昭和五一年三月二六日(特願昭五一-三四一三一)

優先権主張 一九七五(昭和五〇)年三月二八日フランス国出願に基づく

出願公告日 昭和五五年七月一一日(特公昭五五-二六一二六)

登録日 昭和五六年三月二四日

特許請求の範囲

「N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミドまたはその薬理学的に許容される酸付加塩からなり、振せんと、特発性もしくは医原性のデイスキネジーと、舞踏病、チック、片舞踏病のような異常な行動とを含む運動異常を調整する治療薬。」

特許権目録(二)

特許番号 第一二六七四五〇号

発明の名称 行動異常の調整用治療薬

出願日 昭和五一年三月二六日(特願昭五四-一七三九一〇)

優先権主張 一九七五(昭和五〇)年三月二八日フランス国出願に基づく

出願公告日 昭和五九年九月二〇日(特公昭五九-三八九二八)

登録日 昭和六〇年六月一〇日

特許請求の範囲

「N-(ジエチルアミノエチル)-2-メトキシ-5-メタンスルホニルベンズアミド、その第4級アンモニウム塩、その酸化物、またはこれらの薬理学的に許容される酸付加塩からなり、アルコール中毒患者と老齢者における反応性亢進、攻撃性もしくは刺激性のような現象によって示される行動異常を調整する治療薬。」

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